2011年




ーー−8/2−ーー 白馬岳登山


 2008年から毎年行っている夏山のテント縦走。今年は北アルプス白馬岳から栂海新道を経て日本海へ至るコースにした。

 7月26日、出発の日。午前3時に自宅で目を覚ますと、ザーザー降りの雨だった。いきなり出鼻をくじかれた感じだったが、ともかく現地まで行くことにした。車で八方尾根の駐車場へ。そこからバスに乗り換える。幸いにも雨は上がった。もしここで雨が降っていたら、引き返していたかも知れない。

大雪渓を登る。夏山の最盛期にあたる時期だから、かなりの混雑を予想したが、思いの外登山者は少なかった。



雪渓を登り切るまでおよそ2時間。最後は地下足袋の底が冷たくて、足の裏の感覚が無くなりそうになった。


見上げると杓子岳の崩壊壁「天狗菱」が、恐ろしい姿を見せていた。




大雪渓から急峻な登山道に移り、さらに小雪渓を渡る。




昼過ぎに頂上宿舎のテント場に到着した。テントを設営して、持参した酒で祝杯を上げた。

時間に余裕があったので、主稜線の上を散策した。

白馬岳山頂の西側斜面は美しい。ほんの束の間のガスの切れ目に、全貌が現れた。




稜線上を歩く登山者は、まばらであった。




高山植物が可憐に咲いていた。




その晩は、暴風雨になった。二日目の行動をどうすべきか、寝袋の中で悶々と思案した。

夜が明けると、いささか風雨が落ち着いた。

レインスーツを着て出発した。

私にとって、28年ぶりの白馬岳山頂である。




山頂から、北の稜線に向かう。




三国境。ここで白馬大池へ続くコースから分かれて、雪倉岳へ向かう。

画像中央が雪倉岳。その奥左に見えているのが、この日の目的地朝日岳。




このコースに入ると、急に登山者が減る。この日、朝日岳に向かったのは、我々の他に女性二人のパーティーだけだった。

稜線上は、高山植物の宝庫。色とりどりの花が、群落を作って咲き乱れていた。

画像は、高山植物を撮影している相棒のM氏




雪倉岳山頂までは、比較的眺望が利いた。



ところが、山頂を越えた頃から、ガスがかかって景色が見えなくなった。


稜線上にニッコウキスゲの群落があった。淡いオレンジ色が鮮やかなこの花は、今回目にした高山植物の中で最も大きなものだった。




朝日岳の手前で、水平道に入った。朝日平のテント場まで、朝日岳の山頂をバイパスする形である。

山頂は、翌日栂海新道に向かう途上で通過する予定だったから、楽な水平道を選んだのだった。

ところが、この水平道が曲者だった。細かい登り下りを繰り返す、長い道で、どっと疲れた。「水平道という名前に騙された」と言って、山小屋に文句を言う登山者もいるそうである。




水平道の途中で、激しい雨に襲われた。

朝日平のテント場に着いても、雨が降り続いた。夕方の一時的な雨との予想は外れた。

真夜中になっても、激しい雨がテントを打った。雨の音が大きくて、話ができないほどだった。

叩きつけられた雨粒が、テントを透過して、霧雨のようになって落ちた。

寝袋も衣類もぐっしょりと濡れ、寒くて眠れなくなった。

翌朝も雨が続き、ガスで全く視界が無かった。

絶望的な天気で、下山を決めた。エスケープ・ルートとして考えていた、北又小屋へ下るルートを取った。

この日の写真は、二人のカメラに一枚も残っていない。雨と霧で何も見えなかったし、写真を撮る気にもなれなかったのである。


結果として、栂海新道は諦めることになった。私にとって、図らずも28年前と同じコースを辿ることになった。唯一違ったのは、朝日岳の水平道だけであった。

もっとも、前回は小川温泉まで歩いたが、今回は北又小屋でタクシーを呼んだ。例の二人組の女性パーティーと、ちょうど下山地で出会い、相乗りすることになった。このルートのタクシーには、乗客一人当たり1000円の補助金が出る。おかげで、格安料金で乗ることができた。


夕方自宅に戻り、ザックの重さを量ったら、出発時点より若干重い23Kgだった。濡れて水分を含んだ装備が、荷を重くしたのだった。

画像は翌朝になって、濡れたものを干しているところ。この日も雨の気配があったので、事務所の下に干した。




楽しみにしていた登山が、悪天候のために途中で下山することになり、残念だった。

その一方で、期間前後の気象状態を考えれば、二日間だけでも北アルプスの稜線を歩くことができたのは、幸運だったと言えなくもない。

ともあれ、自然がちょっとへそを曲げれば、人間など小さな存在でしかない。そんな事を、久しぶりに実感した登山だった。




ーーー8/9ーーー 梅ジュースの効用


 登山に、梅ジュースを持参する。家内が作った自家製のジュースである。それを5〜6倍に薄めて飲む。適宜その希釈液をペットボトルに作り、行動中に飲む。これが実に美味い。昨夏以来、登山の必携品となっている。

 美味しいだけでなく、瞬時に疲労が消え去る。疲れて鈍くなった意識が、シャキッとする。この即効性のリフレッシュ効果は、スポーツドリンク等の比ではない。

 暑気当たり対策として梅酒を飲むことは、日本の夏の風物詩である。しかし登山の行動中にアルコールを飲むわけにはいかない。同様の効果を求めるなら、梅ジュースが好ましい。

 梅ジュースの作り方は簡単。梅の実を氷砂糖で漬けるだけである。ちなみに、梅は自宅で採れたものを使っている。右の画像は、出来上がった梅ジュースと、漬けこんでいた容器に残った梅。

 自宅でも折に触れて飲んでいる。暑い日に、氷水あるいは冷えたソーダ水で薄めて飲むと、実に爽やかだ。来客にも出す。宅急便の配達員など、仕事で立ち寄る人にも、カミさんが差し出すことがある。皆一様に、驚いたような顔になって「これは美味しいですね」と言って飲み干す。

 このようなものが、市販に無い。梅酒なら販売されているが、梅ジュースは聞いたことが無い。もっとも、梅酒だって自宅で漬けるのが、昔からの習慣だった。カミさんは、「何故こんなに良い物が市販されてないのだろう」と言う。しかし私は思うのだが、本当に役立つものは、けっこう自宅で作られるものの中にある。

 今年の夏山にも持参した。その下山地でのこと。タクシーに相乗りすることになった女性二人に対して、相棒のM氏が梅ジュースを提供した。女性に優しいM氏は、こういう気配りに長けている。私が横から口を挟み、ちょっと講釈を述べた。すると、脇で黙って聞いていた小屋の老人が、「それは元気が出るんだよ」と言った。

 家へ戻ってみたら、梅ジュースはボトルの底に少し残っていた。それなら、真剣に勧めてくれた小屋の老人にも、あげれば良かったと思った。






ーーー8/16−−− 御巣鷹の尾根慰霊登山


 8月4日に御巣鷹の尾根へ慰霊登山に行った。1985年8月12日の夕刻、日本航空のジャンボジェットが墜落し、520名が犠牲になった未曾有の飛行機事故の現場である。

 事故当日の事を、私は今でも覚えている。当時私は会社勤めをしていた。食堂で残業食を食べ、執務室の席へ戻ると、向かい側に座っていた人がイヤホンで携帯ラジオを聴いていた。私を見ると、「ジャンボジェットが行方不明になったそうです」と言った。それを聞いて、血の気が引く感じがした。

 かねてよりこの慰霊登山をしたいと考えていた。しかし思うだけで、実施には至らなかった。今回のきっかけとなったのは、東日本大震災であった。一瞬にして命を奪われた多くの犠牲者の無念。その霊を弔うことは、今を生きる自分がすべき事だと思った。東北の被災地も、いずれ訪れねばならぬと思っている。その前に、心の隅に引っ掛かっていた御巣鷹の尾根へ行くことにした。

 現地へのアクセスに関して、ネットで調べた。情報としてまとまったものは見当たらず、いろいろ調べてようやく感触を得た。観光地ではないから、案内が行き届かなくて当然であろう。本気で行く気がある人なら、役場へ問い合わせるなり、現地で聞くなりすれば良い。現地の人なら、たぶん誰でも親切に教えてくれるはずだ。

 事故が起きたのと同じ時期に行こうと考えていた。そうすれぼ、より事件の実態に迫ることができ、遺族、関係者の気持ちを共有できると思ったからだ。しかし、12日に近くなると、遺族の参拝が多くなり、邪魔になってはいけないと考えた。それで、この日になった。

 軽トラで自宅を出た。途上、佐久辺りのショッピングセンターで花と線香を購入した。十国峠を越え、上野村の集落に入ったところで国道から分かれ、谷間の道を御巣鷹の尾根へ向かう。進むにつれ、山の深さが感じられた。

 3時間半ほどで、現場の駐車場に着いた。そこから事故現場の「昇魂の碑」まで、標高差180メートルの山道を歩く。

 登りはじめてすぐに、中学生とおぼしき集団とすれ違った。学校の行事で来ているようだった。生徒たちは、神妙な顔をしている者も、元気にはしゃいでいる者もいた。

 「昇魂の碑」によりだいぶ下の方で、最初の慰霊碑を見た。その瞬間、犠牲者が広範囲に散らばっていたことが実感された。慰霊碑に書かれた名前が、私と同じだったので、印象に残った。

 山道で、草刈りの作業をしている一団と会った。地元の作業員が、園地の手入れをしているのだ。その中の一人、管理人とおぼしき人が「ご遺族の方ですか?」と聞いてきた。私は「いいえ」とだけ答えた。

 「昇魂の碑」が立っている、小広い場所に着いた。と言っても、尾根の上である。土木工事で造成した場所なのだろう。ベンチに座って汗を拭いていたら、先ほどの作業員たちが上がってきた。

 上から降りてきた初老の男性が、管理人に声を掛けた。一つ向こうの尾根を指し、「あれが主翼がぶつかった尾根ですか?」と聞いた。そちらへ目をやると、尾根の一部がU字型にえぐられていた。管理人は「そうです」と答えた。

 あそこで主翼が接したとなると、恐らく機体は地面をかすめるような形でこの尾根にぶつかったのだろう。パイロットは、なんとか真っ逆さまに落ちるのを避けようと、最後の瞬間まで苦闘していたのかも知れない。そんな想像が頭をよぎった。

 管理人は、「この場所は、事故直後は樹がなぎ倒され、焼けただれて、丸坊主になってました。26年経って、これだけ緑が増えました」と言った。

 居合わせた人が、「ずいぶん広い範囲に(慰霊碑が)ちらばっているのですね」と言うと、管理人は「どうぞゆっくり見て行ってあげて下さい」と応えた。


 「昇魂の碑」に花をそなえ、線香をあげた。そして手を合わせた。

 そこから、尾根に付けられた小道、網の目のように配置された道をたどって、慰霊碑を回った。

 かなり急峻な尾根である。事故当時、捜索作業は困難を極めたことだろう。その急峻な尾根の上と、北側の斜面に、慰霊碑が点在していた。


慰霊碑は、遺体が発見された場所に立っている。とにかく、おびただしい数の慰霊碑が、そこらじゅうに立っている。

慰霊碑にはおおむね名札が添えられていて、氏名と年齢が書かれていた。

小さい子供の慰霊碑には、おもちゃやぬいぐるみが供えられていた。

若い女性の慰霊碑には、小さな化粧品の瓶が立っていた。

囲碁が好きだった人だろうか。ビニール製の小さな碁盤が何枚も置いてある慰霊碑もあった。

故人に呼びかける、遺族のメッセージが掛かれた札もあった。それが涙をさそった。

「○○家」と書かれた区画があった。なんと、親戚二家族、合わせて8人が亡くなられていた。







 尾根の上は、緑の木々が茂っていた。しかし、周囲の森林と比べれば、まだ幹が細い若木が大半だった。

 そんな中に、事故で根元から折れたとおぼしき、大木の株があった。周りは焦げていた。

 その中心の空ろになった部分から、シラカバとホオノキの幼木が生えていた。

 その光景が、人の悲しい記憶とは裏腹に、年月を経て次第に元へ戻って行く、自然界の無常の営みを感じさせた。













 

北の斜面を下りて行くと、スゲノ沢と書かれた矢印があった。

その方向へ歩いていくと、少量の水が流れる沢に行き付いた。またもその周辺に、おびただしい数の慰霊碑があった。

 この沢は、尾根にぶつかって折れた機体の後部が落ちた場所とのこと。生存者4名が発見されたのも、この付近だったそうだ。

もの凄い勢いで激突した尾根上の場所と比べると、多少は衝撃が少なかったようである。生存者の話によると、墜落直後、周囲では息づかい、うめき声、あるいは救いを求める声などが聞こえたそうだ。それが、時間が経つにつれて、次第に聞こえなくなったと言う。

一瞬で亡くなった人々がいる一方で、墜落の事実を認識し、救いを待ちながら、痛みと苦しみの中で亡くなった人々もいる。どちらも、悲惨な事故の犠牲者である。無念のほどはいかばかりだったか。














「昇魂の碑」のすぐ上に、大きな仏像があり、脇に犠牲者全員の氏名を刻んだ碑があった。

記された氏名を目で追うと、その数の多さにあらためて圧倒された。


 















 「昇魂の碑」まで降りてきた。少し離れた場所から聞こえていた、大声の持ち主たちがそこにいた。中年の女性三人。「570人が死んだって言うじゃん」、「マジで大変な事故だったよね」などと、声高に喋りながら、線香に火を付けていた。

 山道を降りて、駐車場に着いた。盛夏の山奥の地は、何事も無かったように静かだった。

 帰路、上野村の「慰霊の園」に立ち寄った。慰霊塔があり、その前に大きな広場がある、ガランとした施設。山里の上野村では、このような広い敷地を確保するのが難しかったと、説明板に書いてあった。毎年8月12日には、ここで合同慰霊祭が行われる。これだけの広場が無ければ、遺族・関係者が入りきらないのだ。そう思うと、事故の重大さがしのばれて、またもや胸が締め付けられるような気がした。





ーーー8/23−−− 西部のバックル


 画像は、米国旅行の土産に貰ったバックルである。ずいぶん前の事で、いつだったかも、誰から貰ったかも覚えていない。

 貰ったものの、使わずに放置されていた。あまりにも大きく、重い代物なので、使う気になれなかったのである。このようなバックルは、身近に見たことが無く、その異質な雰囲気も、遠ざけた理由だった。

 図柄は、砂金採りのシーンである。男がひざまずいて、笊で砂金をすくっている。脇に馬が立っている。牛の頭蓋骨が転がっている。背景に高い山が見える。西部開拓時代の光景であろう。

 このベルト、最近になって、Gパンに通して使うようになった。心境の変化があったからである。それは、このバックルの裏面に彫られたメッセージに気付き、それにある種の共感を覚えたことによる。

 「金を掘り当てる夢が、開拓のきっかけとなった。このバックルは、そのように厳しく、そして孤独な人生を選んだ人々に捧げるものである」

 アメリカの西部開拓の歴史の是非は、ここでは触れないとしよう。私はただ、たかがバックルにも思いを込めて作る心意気が、気に入ったのである。

 そして、世間の流れから外れた、孤独な生き方、夢を追って暮らすフロンティアの生き方に、わが身を重ねる部分もある。

 このバックルを付けて歩くことに、もはや恥ずかしさや迷いを感じる事は無い。





ーーー8/30−−− アルコール・チェッカーの寿命


 アルコール・チェッカーについては、以前触れた(→こちら)。あれからもう4年も経った。この道具には、ずいぶんお世話になった。

 元々は、出先で酒を飲み、翌日運転して帰る際に、アルコールの残り具合をチェックすることが目的だった。その頃は、飲酒運転に対する法律が急激に厳しくなった時期だった。私は、酒を飲んでハンドルを握るつもりなどサラサラ無いが、深酒をした翌朝の状態については、それが法律に触れるか否かの判断は、測定してみなければ分からない。宴会の翌日は二日酔いになるのが当たり前だった私には、必要不可欠な道具のように思われた。

 その後、アルコール・チェッカーの役割は、日ごろの飲酒量の管理がウエイトを占めるようになった。毎朝、起き抜けにこの道具でチェックをする。値が出れば、前の晩飲み過ぎたということになる。また、普段なら問題無い飲酒量で値が出たとすると、健康状態が良くないとか、飲み方が悪かったなどと推察できる。

 このようにして、日常的に使ってきた道具だが、最近少し疑わしくなってきた。多少飲み過ぎて、値が出ることを覚悟して測定しても0.00が表示される。そういうことが頻繁に起きるようになった。

 ネットで調べて見たら、同じしくみの他社の製品の説明書きに、センサーの寿命は1年程度であり、それを過ぎると誤動作の恐れがあると記載されていた。それを知って、急に不安になった。万が一、誤った値を信用して運転し、飲酒運転で捕まったら一大事だ。

 そこで、同じ品物を新たに購入した。新旧を取り違えたらいけないから、届いた直後、古い方にOLDと書いた。

 測定値に違いが出るか、実験してみた。実験と言っても、酒を飲んで、しばらく後に測定するだけである。

 不安は的中した。古い方は、明らかに低めの値が出たのである。

 端的な例として、ある実験の結果は、古い方の値が0.10、新しい方が0.25だった。単位は呼気1リットル中のアルコール量(mg)である。

 法律の規定では、0.10ならセーフだが、0.25なら罰金50万円+免許取り消しである。

 つまり、古い方を使って、0.10だから大丈夫と運転をして、捕まったらとんでもないことになっていたと言うことだ。

 便利な道具も、使い方に気を付けなければ、却って墓穴を掘ることになりかねない。そんな教訓の見本のような顛末となった。

 1300円程度で買えるものである。これからは、年に一回買い替えることにしよう。今回購入したものには、早速購入日のメモを貼り付けた。









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